さて、昨日の続き。
旧本渡町のうち南小校区の大部分は元々「町山口村」で、
1898(明治31)年12月に本渡町と改称し、
その後1935(昭和10)年4月に、
現在の北小校区とほぼ重なる本戸(ほんど)村を編入。
そして1954(昭和29)年4月、
亀場・櫨宇土・志柿・下浦・楠浦・本・佐伊津の各村と合併、
ここに旧本渡市が成立した。
(宮地岳村の編入は昭和32年3月)
因みに、本戸村と云うのは1889(明治22)年4月、
本戸馬場村、広瀬村、本泉村が合併して出来たものだ。
天草郡(Wikipedia)
Today's BGM
あんたのバラード(世良公則)
男と女で(相曽晴日)
以上のことから、読み方は同じでも、
「本渡」と「本戸」は別物だったのではと推察出来るのだが、
どうしても不可解なのが、町山口村が本渡町に名前を替えた経緯。
しかも中世の頃、城山にあったとされる山城「本渡城」は、
別名を「本戸城」若しくは「本砥城」と云ったらしいし、
天草下島について書かれた古文書には「本砥島」の記述が登場する。
さらに、隣県の鹿児島県内には、
本砥(ほんど)と云う苗字の人が現存していると聞けば最早、
訳が分からなくなってくる。
ただ、識字率が低かった頃は、
誤字に気付かなかった可能性があるし、
仮に文字化けしていても大した問題では無かった気もする。
ということで、以前にもご紹介した、
知人K氏が沖縄でタクシーに乗った時の話。
運転手 「お客さん、本土の方ですか?」
知人K 「よう分かったな。手野に養子に行っとるバッテン、
元々は半河内。あんたも出身は天草かな?」
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