2/04/2017

本渡(本戸・本砥=ほんど)の話 その2



さて、昨日の続き。
旧本渡町のうち南小校区の大部分は元々「町山口村」で、
1898(明治31)年12月に本渡町と改称し、
その後1935(昭和10)年4月に、
現在の北小校区とほぼ重なる本戸(ほんど)村を編入。
そして1954(昭和29)年4月、
亀場・櫨宇土・志柿・下浦・楠浦・本・佐伊津の各村と合併、
ここに旧本渡市が成立した。
(宮地岳村の編入は昭和32年3月)

因みに、本戸村と云うのは1889(明治22)年4月、
本戸馬場村、広瀬村、本泉村が合併して出来たものだ。
天草郡(Wikipedia)
Today's BGM
あんたのバラード(世良公則)
男と女で(相曽晴日)


以上のことから、読み方は同じでも、
「本渡」と「本戸」は別物だったのではと推察出来るのだが、
どうしても不可解なのが、町山口村が本渡町に名前を替えた経緯。
しかも中世の頃、城山にあったとされる山城「本渡城」は、
別名を「本戸城」若しくは「本砥城」と云ったらしいし、
天草下島について書かれた古文書には「本砥島」の記述が登場する。
さらに、隣県の鹿児島県内には、
本砥(ほんど)と云う苗字の人が現存していると聞けば最早、
訳が分からなくなってくる。

ただ、識字率が低かった頃は、
誤字に気付かなかった可能性があるし、
仮に文字化けしていても大した問題では無かった気もする。
ということで、以前にもご紹介した、
知人K氏が沖縄でタクシーに乗った時の話。



運転手 「お客さん、本土の方ですか?」
知人K 「よう分かったな。手野に養子に行っとるバッテン、
元々は半河内。あんたも出身は天草かな?」

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